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ロックアウトの再来

23.03.15 Editorial
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ここ数十年、下火だったロックアウトが、使用者の武器の選択肢として増えてきている。ロックアウトは過去ほどストライキや労働者の要請に対抗するものではないが、組合の力やストライキの使用を限定する法改正や、かつて労働者を保護した労使関係制度における施行メカニズムの弱体化などで勢いをつけ、攻勢を増している。その結果、それは頻度を増し、使用者がより大きな譲歩を求めるに従って長期化している。

ニュージーランドの食肉から、アメリカの穀物、でんぷん及び砂糖会社に至るグローバルな食品産業で、攻撃的なロックアウトが席巻した。アメリカのBCTGMはこの4年間に、大手企業で3件の長期にわたる過酷なロックアウトを闘わなければならなかった。しかし、これは食品産業に限ったことではない。ロックアウトは多くのセクターと国々で増えている。

使用者が力を見せつけるこれらの誇示に共通して言えることは、彼らの攻撃的な機能である。労働者たちをロックアウトするのは利益の低下と闘っている使用者ではない。ロックアウトを使っている多くの企業は最高益を上げている企業だ。彼らは実施が可能だからやっているのだ。それはシフトした力のバランスに応じたもので、資本力はまだ増し続けているのだ。それは労働者の動員力を事実上さらに低下させながら、二けた利益を絞り出すツールである。

労働統計を収集するほとんどの全国システムは、注釈付き「業務停止」の下、ストライキとロックアウトを混同している。これらの統計では、失われた労働日数は、ストライキであろうがロックアウトであろうが、失われた労働日数である。これら二つを区別する方法はなく、業務停止の全般的減少はロックアウトの増加を隠してしまう。使用者のロックアウト攻撃を受ける労働者はこの二つを区別できるし、そうしている。

杜撰な統計により、ロックアウトに対する企業の膨らむ欲求の再来という厳しい現実が隠されてしまう。この攻撃を受ける労働者たちに杜撰である余裕はなく、国際法、特に国際人権法におけるロックアウトの位置付けについて明確である必要がある。結社の自由の権利の当然の結果としてのストライキ権は、基本的人権法に規定された権利である。ILOは過去60年に渡り、特に第87号条約のストライキ権に関連する大幅な法律学を開発した。この権利がなければ、労働者にとって有効な結社の自由はあり得ない。労働組合の結成による労働者の結社の自由の権利は、人権に関する世界宣言と市民的及び政治的権利に関する国際規約に規定されている。結社の自由の文脈の中で、特に労働者のストライキ権は、経済的・社会的及び政治的権利に関する国際規約に言及されている。第87号条約は国際人権法の慣例的部分を形成する。

これらの法律文書のどこにも、ロックアウトや使用者の「権利」は言及されていない。ILOの法律学のどれも、労働者のストライキと使用者のロックアウトを同等扱いしていない。また第87号条約やその他の文脈の中で、使用者のロックアウト「権利」に触れたILOの法律学は一切ない。各国政府はロックアウトを禁止したり合法化、あるいは規制するかもしれないが、ILOやその他の国際人権法に照らし合わせたら、それはできない。

ロックアウトを実施する能力は、国の法制度の中で様々なレベルで施行可能な法的主張であるが、ロックアウトに対する人権はまったくない。他方、集団で労働をストップする労働者は基本的人権を行使している。結社の自由の表現として組合を結成したりストライキを行う労働者の人権は、賃金労働者が資本に対する不平等な交渉関係に立つ明確な認識の下に成立している。ロックアウトは階級勢力のあからさまな表現であり、ほとんどの国々で既に多くの規制で妨害されているストライキ権がILOおよびその他でも攻撃に晒されているとき、この根本的な違いを思い起こすことが必須である。